みなさんこんばんはひよこ @hiyokoluv です。
Twitterで散々書いたのでみなさんご存知と思いますが、今僕は One Voice Campagin に微力ながら関わっています。関わっているって言うと割と受動的なイメージがあると思うのですが、ぶっちゃけ結構僕今本気でこの企画やってます。
でもやっぱりOne Voice Campaginってあんまり伝わっていないみたいで
「ただのお祭りでしょ」とか「なんとなく流行りでやってるだけでしょ」みたいな発言をTwitter上でみることもしばしばで。
それがちょっぴり悔しくて。今回のこの記事を書いています。
いつもみたいに静かな言葉は書けないかもしれません。
でもちょっとだけ語らせてください。
自分の信じるものくらい、僕、思いっきり自信持って語れるんで。
それでは、始めさせて頂きます。
・日本について想うこと

ぶっちゃけ今の日本結構豊かだと思うんです。
家に帰ればあったかいご飯あるし。友達最高だし。ベッド寝心地いいし。
でも、じゃあ今の日本て本当に理想の国なの、って聞くとみんな黙っちゃう。
そんなこといわれても…なんて目をそらしたり、理想じゃないけど理想なんてどこにもないじゃんなんて、言い返したりする人もいる。
今の日本て結構そんな国だと思う。
・違和感に慣れすぎた僕ら

誰かに言われたことを守ってきた僕らはきっと違和感を感じる部分が麻痺してるんじゃないかな、なんてたまに思う。
「なんで勉強するの??」ってきくと「いい大学行くためよ。」って言われて。
「なんで大学いくの??」ってきいても「良い企業に行くためよ」って言われて。
「なんで就職するの??」ってきいても「幸せになるためよ」って言われて。
だれも「あなたの幸せって何なの?」なんて聞いてくれない。
誰かに決められた幸せを生きるだけの僕ら。
自分の理想を考えることをやめて、だれかの幸せをなぞるだけの僕ら。
そんな鏡に写った自分を見てもしあなたが少しでも違和感をもつならば、自分の幸せについて問いなおしてみたいではないですか。
・人は何かに従うときに思考を停止する

人は何かに従うとき思考を停止します。
赤信号をみれば僕らは自然と足が止まりますし
スパゲティをみれば自然とフォークに手が伸びます。
僕らは生まれた時から常識という名のルールに従いながら生きています。
でも、それはあなた人生ではない。
僕は何も常識を批判しているわけではありません。
赤信号を見て歩き出す人がいっぱいいれば、きっと世の中は混乱してしまうでしょう。でも、時代は変わりつつあります。先人たちの常識に取らわれ、すがるだけでは未来は切り開いてはいけない。変えるべきところは変え、従うべきところは従う。これってとっても大切なことだと思うのです。
将来を担っていく若者たち。
そんな言葉が陳腐に見えるほど、今の日本社会は閉塞感に満ちあふれています。
低迷する経済に混迷する政治。
こんな状況の中でだれかに決められた人生を歩んで、一体だれが将来を担っていけるのでしょうか。「やりたいことができるのなんて、子供のうちだだぞ」なんて子供に言う大人にだけには僕は絶対になりたくない。
何を夢見てんだか。
そんな風にいう批評者もいるでしょう。
でも、「だからこそ」、今こそ若者の想いが叶うことが必要なのではないでしょうか。
・ 若者が社会を変えていける社会を

一度でも僕らの声が届いたならば、それは夢じゃなくて現実になる。
そこに実感があれば、もっともっと僕らは社会を創っていこうとしていける。
てめーの社会くらいてめーで創っていきたい
だれかの創った枠組みに生きて、だれかの創った枠組みに愚痴を言う。
それってあまりにもかっこよくないと思うんです。
愚痴を言うなら自分で変えたい。
違和感があるなら、自分で正したい。
将来を担うなんて受動的な表現はいやだ。
この国の未来をもっともっと良くしていきたい。
日本に暮らすのは誰ですか。
日本が暗くなっていって、困るのはだれですか。
なら、僕達でもっと変えてこうよ。
僕達でもっと、声を上げていこうよ。
今回僕は「もっと多くの若者に自分の違和感を伝えて欲しい。伝えた結果、社会を変えたという実感をして欲しい。」という理由からこの「100人の学生がOne Voice CAmpaginについて想うことをブログで書く」( #100人ブログ )を企画しました。
「若者が社会を変えるんだ」って証明してみたい学生さん
「将来を担うのは俺達だ」って声を上げてみたい学生さん
いらっしゃいましたらぜひ @hiyokoluv までご連絡ください。
一緒に違和感を伝えて行きましょう。
一緒に自信を持てる社会を作って行きましょう。
自分の生きる社会くらい自分でつくっていきたい。
今回はこれで終わり。
多くの連絡、くるといいな。
「後でfacebook申請しとくねー!」は現世への冒涜である
まずはじめに。
現世への冒涜という言葉はちょっと言い過ぎたかもしれません。笑
たまにはちょっと刺激的なtitleを書いてみたくなるお年ごろだったということで、許してください・ω・
というわけで、言葉こそ語弊があれ、友人との会話に気付かされて以来結構感じていることではありますので、今回はここらへんについてかいてみようとおもいます。つたない文章ですが、最後までお読みいただければ幸いです。
① つながりが陳腐に見える時代

最近はもうあまり言ってはいませんが、交流会に言ってかつてよく聞いたこの言葉。
あとでFacebook申請しとくねー!
だいたいこんなこといってもfacebook申請して、友人になったとしても交流した試しがあなたにはあるでしょうか。
交流会で出会ったからとりあえず友人申請。なんとなく誰かわからないけど承認。
こんなことをしていて、一体何か出会いが生まれたのでしょうか。
イベントの参加者はとりあえずグループにまとめちゃおう。
でも、僕は思うのです。
そんなとりあえずのつながりを重ねて一体なんの意味があるのでしょうか。
つながり、この言葉が最近とても陳腐になっていると思います。
ではなんでつながりの言葉が陳腐になってきているように感じるのか。
② つながりがあって人がいるのではなく、人がいてつながりがある

つながりを大切にする人は、一度はつながりに救われた人です。
僕自身、自分を箱庭から救い出してくれたのはつながりでしたし、自分を変えてくれたのもつながりでした。
変わりたくても変われなかった僕を暗がりから引っ張りだしてくれた先輩のつながりによって、僕は大学生活の半分以上を共にする自身の成長の場に出会えました。自身が開いた二年生の交流会では、おおくの繋がりがうまれ、様々な行動が生まれました。でも、そのつながりってきっとお互いがいて、結果としてつながりになったものだと思うのです。
つながりとはお互いのことを承認してはじめて存在するものである
Facebookでのとりあえずの、友人申請に価値がないなど当然のことなのです。
③ 最悪つながればいいや、という安心感

交流会で出会った人を覚えきれない
同様の理由はここにあります。このSNSの時代において、僕らはいつでもどこでもつながりを保てます。帰りの電車の中でもfacebookメッセージで会議はできますし、ちょっと寂しくなればLineで電話をすることまで可能です。
でもだからこそ、僕らは今を生きることをしなくなったのではないでしょうか。
あとで友人申請すればいいや。あとでメッセージすればいいや。
こんなことはまさしく、今、この瞬間を生きている現実世界を侮辱しているように思います。
僕らのコミュニケーションにおいて、対面のコミュニケーションにまさるものなどないでしょう。お互いの声や感覚、雰囲気や目の動きなど様々な条件のもとに形成されるリアルな場こそが最もお互いをわかりあうのにふさわしい場所なのではないでしょうか。
後でつながれる、この感覚は僕らのコミュニケーションの刹那性という希少性を奪い去ってしまったのです。
④ つながりをすて、今を生きよう

本来人とのコミュニケーションに,後で、はありません。
今分かり合うか、一生分かり合えないか。
僕らはまるで戦場での剣士のように、そんな一瞬の攻防のなかに見いだせるお互いの理解にこそ真に価値があるのではないでしょうか。
つながりだけ作っておいて、後であえばいいや。
どんな人間も保険がある限り、そこに全力で向き合うことは出来ません。
このような考え方のもとでは、お互いの対面のコミュニケーションに本気になることはできません。
だからもし、あなたがこのぬるま湯のようなつながりに飽きているのならば、もう一度、後でつながれるという保険をすて、背水の陣で理解しあってみようではありませんか。戦場での剣士の命がけのやり取りの先に、真の理解はあるのです。
今理解するか。一生理解しないか。このような刹那的なコミュニケーションの先に、つながりの価値があるのではないでしょうか。
目の前のだれかに常に本気でありたい
今回はここらへんで。
もっともっと考えなきゃ。
ひよこ
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ひよこの気に入った本や、ブログ、IT系の情報などをシェアしていくので、よければ応援おねがいします^^
間合いを調整するあなたへ
① 槍は剣より優位である

一般的に槍は剣より圧倒的に優位だと言われています。 圧倒的なリーチを誇る槍は剣のリーチの届かないところから攻撃できるからです。 槍に間合いを取られた時、剣には対抗するすべはありません。 剣が槍に勝つ方法。それは相手の懐に飛び込むしかありません。 いくら槍が強いといえどもそれはリーチの差がある時の話。 自分の間合いに入ってしまえば剣であるこちらに分があります。
しかし、そのためには槍の猛攻をくぐり抜けなければなりません。 こちらが相手の懐に潜り込もうとすればするほどに、槍は必死で防ごうとします。 剣は懐に入るまで常に命がけでありえるのです。
② 人間関係と間合い

これは人間関係でも同じだと思います。 誰かと距離をとっているうちは、あなたは傷つくことはありません。 心を許し切ることもなく、一定の距離を保ちつつ相手と関わる時、そこに自分は傷つくことはありえません。 心理的に相手との間合いを調整する槍は、猪突猛進してくる剣よりも強いのです。
このような経験は恋愛において主に、思い当たる節がある方も多いのではないでしょうか。 あいつは駆け引き上手だ、と。
押されては引いて。引かれては押して。 そんなまるでダンスのステップのように相手との距離を保ちながら振る舞う人は、よくこんな言葉で表現されます。 惚れた人に対して、惚れられた人は冷静に相手との距離を調整できます。まさしく惚れた人は剣でしかなく、相手の槍にひたすらに翻弄されるのみなのです。
しかしながら、あらゆる漫画の主人公をみても、その武器は不思議と剣と決まっています。 いったいなぜ、彼らの武器は剣なのでしょうか。
③ 剣は槍より本気である

剣の方が槍よりも本気だから。
おそらく理由としてはこのようなところではないのでしょうか。 剣はいつも命がけです。相手との距離を詰めなければ、槍には勝てません。勝つためには相手の攻撃をかいくぐり、相手の懐に入らなければならない。生きるか死ぬか。剣は常に槍よりも本気です。
とはいえもちろん槍だって本気です。懐に入られれば負けなのですから、剣がこちらに向かってくるのを本気で撃ち落とそうとします。 いつだって心理的な間合いをとっている人は懐にはいられるのが怖いのです。懐に入られれば、傷つくかもしれない。信じれば、裏切られるかもしれない。期待しても、報われないかもしれない。誰かと心理的な間合いをとりつづける人は、一度は人を信じ、傷ついた人です。あんなに好きだったのに、報われなかった。努力したのに、叶わなかった。だからこそ、槍は懐に踏み込んでくる剣を怖がります。
しかしそれでもなお、剣は槍より本気なのでしょう。なぜなら剣は間合いに入らねば傷ついてしまうからです。命をかけている剣と、命をかけてない槍。どちらが一貫して命がけかというと、それは間違いなく剣なのです。
④ 剣である勇気から目を背けたくない

僕はどちらかというと槍型の人間でした。誰かと間合いをとりつづける。でも、それでも命をかけていない自分に違和感を持ち続けていました。なにかに本気になる能力。盲目的になることを恐れず、猪突猛進に目標を目指す剣型の人にいつだって憧れていました。槍はたしかに強いです。剣型である人を、器用にさばくことができる。でも、そこに命がけの姿勢はない。
僕はずっと物足りなさを感じてきました。 確かに槍は剣より強いです。 でも、きっと本当に強いのは懐に入る勇気のある剣なのです。 傷つくかもしれないし、報われないかも知れない。それでも結果を求めて、愚直に取り組む。下手にすかしたりせずに、常に己の弱さにめげそうになりながらも、それでも懐に入る以外に選択肢がない剣に僕はきっと憧れていたのです。
心を閉じている人は強いです。
でも、心を開きながら、傷つきながらも懐に向かう人のほうが、本当は何倍も強いんです。
僕らはまだ学生です。 自分を守って、大人びた対応をするよりも、泥にまみれながらでも、打たれ強さを身につける方が大切なのではないでしょうか。 心をだれかに預けない。心をひらかない。心理的な間合いをとる。僕がこのことを違和感を持ちながら、一歩踏み出そうとするまでに9ヶ月ほどかかりました。
本当に怖がりで、まだまだ傷つく勇気も全然足りませんが、それでも色々と見える景色が変わったのも事実です。
「今、ここ」を全力で命がけで生きていきたい。
そんなひよこの戯言でした。
自戒を込めて。
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あなたの目の前は理想ですか
昨年、自分が取り組んだいた団体で友人が考えたこの言葉。今回はこの言葉について思ったことを書いていてみようと思います。
① 社会は違和感に満ちあふれている

今の日本は閉塞感に埋もれています。低迷する経済に、混迷する政治。国民はもはや日本に期待しておらず、一方で目の前に迫る不安からも目をそらしています。なんかよくないけど、なんとかなるはず。僕らは社会の複雑さと違和感の前に、様々な問題を「自分ごと」として考えていないのです。
② 違和感に慣れてしまっている僕ら

なんで、勉強しなきゃいけないの?
塾の先生ならば幾度となくぶつかるこの質問、あなたはどう答えますでしょうか。どうして勉強しなきゃいけないの。どうして人を騙してはいけないの。 子供は時に僕らの考えもしないような質問をしてきます。
誰もが最初は感じる社会への違和感。でも、僕らは社会という枠組みに、学校という枠組みに組み込まれてゆく中で、違和感を麻痺させていきます。誰かが引いたレールになんとなくのって、誰かの言った言葉を意味もなく繰り返す僕らには、真に自分の体験から彼らに答えられるものは恐ろしいほどに少ないです。
当然ながら僕らの当たり前は僕らの環境が当たり前としているものです。当たり前とは同様の環境にいる人々が持つ共通の認識の枠組みであり、彼らによって構成されています。しかし、それはあくまでぼくらの当たり前であり、僕らと同じ環境にいない子供たちにはわかりません。
僕らは慣れてしまっているのです。ある環境に新しく入った時に感じる違和感を。いつの間にか慣れてしまっているのです。その違和感があるのが当たり前になってしまう。違和感に慣れてしまった僕らは誰かの積み重ねてきた慣習に疑問を持つことなく暮らすようになり、自らの思考を停止させます。
だって、そういうものなんだもん
僕らはそう思考を止め、自分の人生を誰かに委ねるのです
③ あなたの目の前は理想ですか

僕らは違和感を違和感として認識していなければなりません。社会に出る一歩前の、仕事として社会的な価値を作っていくその一歩手前の僕らが社会の違和感を問うていかずに一体誰が違和感を問うのでしょうか。
ノマドにフリーランス。なるほど確かに彼らの違和感への指摘は枠組みの中に組み込まれている僕らよりも遥かに的確で的を得ているでしょう。しかし、現状において彼らの指摘は、僕らを過剰に反応させるのみで、まさに触ればやけどする現状となっております。体験の外側を、共通見解の外側を攻撃するのが人間ならば、その内側からきちんと違和感を持ち続けることが、最も変化への近しい道なのではないでしょうか。
僕らは違和感を忘れてはいけません。僕ら大学生が違和感を忘れ、社会の違和感に挑戦しない時に、一体誰がその違和感を是正していくのでしょうか。
あなたの目の前は理想ですか
もし、この質問にYESと答えられないならば、おそらくそれは変えるべき現状であり、僕らの変える責任がある現状なのです。
僕らは違和感に慣れてはいけない。
社会の違和感を変えるべく泥臭く僕らが奮闘せずに一体誰が社会を変えるのでしょうか。
今回はこれで終わり。
誰かの人生ではなく、自分の人生を生きていきたいひよこでした。
今僕に足りない3つの能力
みなさんこんばんは @hiyokoluv です。
4月も終わり、少しずつ新生活になれてきています。 以前の記事で書きましたが、大阪に行って以来僕は少し変わったと思います。そんな大阪に行って以来なんとなく感じた自分のできないことを今回は自戒のために晒してみようと思います。
① 本気になる能力

薄々感づいていたけど、やっぱり僕にはこれがないなぁと改めて感じました。マルチタスクでこなす事に拘っていた、僕はただ単に自分が本気でやる言い訳を作っていたにすぎませんでした。一所懸命になることはまさしく一つの所に命を懸けることです。でも、その命をかけたことが崩れることを僕は恐れているのです。信じたものに報われなかった時に人は物事を信じることに躊躇いを覚えます。好きだった人に報われなかった時。努力したにも関わらず結果が出なかった時。人は、安易に心を開くことができなくなります。傷つかないように、半信半疑の予防線を引いて自分を守る。一つの所に自分を預けるのではなく、複数の所に自分を預けることで保険をかけるのです。
でも、それじゃつまらない。本気でないことは所詮は他人ごとだからです。「今自分が関わっている企画です。」こんな事を言っても、所詮それは本気な他人を傍から応援しているだけであって自分ごとではありません。「僕がやっている企画です。」こんな風に自身をもって本当に自分でやるために、本気になる能力、何かを盲目的に信じ、それに食らいつき守る能力が僕には圧倒的に足りません。
② 考えない能力

この答えに迷う人はおそらくいらっしゃらないでしょう。 でも、それっておそらく直感的なものだと思うのです。僕らは当然英文法を理解しました。その仕組を論理的に学び、頭の中に入れました。しかし、その仕組みを習って以来、僕らはこの問を感覚的に解いています。おそらくある程度論理的に思考し、身体の中に落とし込んだものについては、僕らはもう頭を使わずに感覚で解けるのです。
BLOGを書くとき、営業をする時、会議をする時。頭で考えて準備することは大切かもしれませんが、ある程度していて、かつそれで行き詰まっているのならば、今度は準備をしたうえで、あえて準備に乗らないことでも必要なのではないでしょうか。ある程度頭で考えて落とし込んだ後は、感覚で行う。必要以上に流れを計算しすぎるのはよくないのかもしれません。
③ 突破する能力

突破力。
僕に圧倒的に足りない能力です。僕はうまくいかない時に、どうしても別な手をすぐに考えようとしてしまいます。以下に労力を省いて、目標を達成するか。僕は泥臭い作業がとても苦手です。
しかしこのやりかたでは突破力は付きません。困難な状況にぶち当たった時に泥臭い作業なしに、あらたな一手を考えることはかえって即効性がないことのほうが多かったりもします。複雑な計算問題に詰まった時などでも、どうにかうまいやり方がないかなぁと考えている内に時間が終わってしまう。気づいてみればそんな事が多々ありました。失敗しないように考えすぎているあまり、失敗した時の対応が恐ろしく下手なのです。簡単にいえば、諦めてしまう。
うまいやり方がなくともとにかく自分で足を使って、自分で動く。目の前の困難がある時に、自分で動かずに自分で動ける人に突破させておいて、その先を準備しておくのが今の僕です。でも、それでは自分自身に突破力はなくて。自分で困難な状況にぶち当たった時率先して道を切り開ける力。僕にはこれが足りません。
これ以外にも星の数ほどありますが、この足りない能力を身に着けた時自分がどう世界をみているのか結構楽しみだったりします。 まぁ簡単ですが、自戒を込めて書いてみました。
明日の自分にわくわくしたい。
できないことをできるようにしたら、明日の自分は何を見て、何を想うのか。
そんなわけで、今回はここらへんで。
ひよこ。
人は人。僕は僕。
人は人。僕は僕。

この言葉ってほんとうに難しいと思います。僕自身まだ全然理解できていませんが、確かにこれは一つの真理だとおもいます。人と自分を比較し、劣等感を感じ苦しくなってしまうくらいならば、この言葉をぜひ自分にかけてしまって欲しい。人の山を登るのではなく、自分の山を登ろう。以前友人が言っていましたが、この言葉は一つの真理だと思います。
ですがこの言葉を同時に疑問に思うときもあります。
それはこの言葉がなにかを拒絶しようとしている時です。

人は人。僕は僕。
なるほどこの言葉に身を隠しているうちは、自分は傷つかないかもしれません。自分の心地良い場所にいるときにはそれを楽しんで、自分の苦手なこと、できないことに立ち会った時にはこの言葉で他者との関係を絶ってしまえばいいのですから。だって僕は僕で、あなたはあなたでしょって。
別に心地よい空間に居ようとすることを否定しているのではありません。ただ僕が知ってほしいことは、本当は欲しい自分を無意識の内に自ら拒絶させてしまう可能性があるということだけなのです。
幸か不幸か人には知らず知らずの内に自分を守る便利な自己防衛機能が付いています。僕らは本当は欲しい自分を、傷つくのをおそれるあまり拒絶してしまう。本当は欲しいのにもかかわらず、自分の心地良い空間から出るのが恐ろしいから。
僕らは決して清廉潔白にはいきられない。どんなに僕らは公平公正に生きようとしても、知らず知らずの内に嫌なことからは逃げているし、逃げている自分を正当化しているものなのです。自分に言い訳し、自分の欲しい姿を自分から遠ざける。あれは悪いものだから、自分にはいらないのだと自分に言い聞かせ、自分を上手に嘘で塗り固める。自分から上手に目をそらす。

別に心地よい空間にいることは悪くはないと思います。ただもし、その空間に満たされない何かを感じるのならば、きっと僕らはその外側に勇気を出して出てみるべきなのではないでしょうか。その空間がそれなりに幸せで、ただすごい幸せではないならば、おそらくあなたの心は一生そのもやもやを抱えなければなりません。自分の心をごまかし、自分のこころから目を背けたとしても、きっとそのもやもやは完全には消えません。
すっごい怖くて、怖くて怖くて仕方なくとも、僕は自分が苦手だったことをしていこうと思います。もう自分の中でもやもやを持つのはいやだから。泥臭いことを軽視していた僕は今度は結果にこだわります。心を開くことを恐れていた僕は、今度はだれかに自分から心を開いていみます。結果にこだわれば、苦しいかもしれない。心を開けば、信じたものに報われないかもしれない。でももう、世界と距離を取り、心地良い世界で過ごすのは嫌なのです。精一杯傷ついて、けれど精一杯世界を体中で楽しみたいのです。
僕らが嫌っているものは往々にして、自分に関係があるものです。だって本当にいらないものは無関心ですから。本当は欲しかったり、羨ましかったり。そんなものを僕らは自分に言い訳し、自分で拒絶します。 あなたは自分から理想の自分への扉を閉めているのです。
扉をあけるのは怖いです。
そこは自分の知らない世界だから。

でも、扉をあけねば何も変わらない。
だから、勇気を出して扉をあけてみませんか
僕も頑張って扉をあけて、進みます。
今回はこれで終わり。 ではまた次回。
ひよこ
井の中の蛙大海を知らず。されど空の深さを知る。
井の中の蛙大海を知らず。

小中高私立一貫校という箱庭でそだった僕は、まさしく井の中の蛙でした。外の世界を知らず、完成された箱庭にいる。自分で人生を決めてすらいない。ただひたすらに、誰かの決めた人生を、皆が歩く人生を、歩んでいるだけ。レールがひかれていることすら気づかない列車のように、僕はまさしく自分が何処にいるかもわからない状態の中で19年間過ごしてきました。
しかしぼくはきっかけをもらいました。当時付き合っていた彼女さんが井の中をぴょんと出ていくさまをみて、僕はきっかけを欲しました。欲した結果、もらいました。
それにはほんの少しだけジャンプが必要でした。初めてのジャンプは思ったよりも飛べました。

はじめて外にでた僕は、大海の美しさを知りました。知らない景色に、しらない仲間。井の中という暗闇にいた僕は、初めて世界の鮮やかさを知りました。目がなれるまでには、すこし時間がかかりました。
大海の広さを知った僕は、その広さをみなに見せようと思いました。きっかけをもらった僕は、きっかけを恩返ししようと思いました。
しかし、大海の広さを知ってしまった僕はもはや暗がりにもどることはできなくなってしまいました。なにかに一生懸命になること。活動に、彼女に、友人に。周りの大海を見ることができない、狭く暗い井戸に戻ることを恐れるようになりました。僕は井の中の蛙を、自分と差別化しました。

井の中の蛙は空を見ません。空の深さに憧れる前に、今の大海に目を戻してしまいます。しかしかつての大海は、もはや大海ではありません。鮮やかさに慣れた世界は、もはや鮮やかではないし、幸せに慣れてしまった僕は、それなりの幸せでしかありません。それは僕らの一歩目を固めているのみなのです。
僕らは、自身がいるのことが井戸の中であること、箱庭であることを認めるのが怖いのです。もう一度空の深さをしってしまえば、空の深さを認めてしまえば、もう一回ジャンプしなければならないから。空の深さに嫉妬し、己のいる井戸から出た蛙を羨望し、自身の足りなさと向きあわねばならないから。

井の中蛙大海を知らず。されど空の深さを知る。
大海の広さはしらないけれど、目指すべき場所だけはしっている。飢餓感に渇望心に嫉妬心。できない自分にぶつかるし、自分の弱さが晒される。 でも、今の僕に必要なのは、きっとそーゆーこと。
選択と集中。さぁ、もう一度空に憧れようではないか。
体験の外側の世界
体験の外側の世界 こんばんは @hiyokoluvです。
2日連続での更新ではありますが、書いてみようと思います。

誰かを理解したい。
誰かに理解して欲しい。
僕らはふとした瞬間にそのような事を思います。
誰かの何かを理解したい。
誰かの何かを背負ってあげたい。
僕らは時に誰かの悩みを背負ってあげたくなります。
僕らは時に誰かの悩みを引き受けてあげたくなります。
それはきっとそこに自分の生を実感できるから。頼られている、という感覚はそれ自体、自分がここにいることを示してくれます。
しかし、往々にしてその願いはかないません。
僕らは決してお互いの全てを分かり合う事はできない。
なぜか。

それは僕らの育ってきた環境が違うからです。
人は体験からしか物事を考えられません。 僕らが自分の言葉で語るのは僕らが体験してきた範囲のみでしかありません。本を読んでも、人の話を聞いても、それは人の体験であり、僕らの体験ではありません。 あぁ、なんかこの人の言葉薄いなぁ。そんな事を思うのは、きっとそれがその人自身の言葉ではなく、誰かの言葉だからです。
僕らは体験の外側の世界にいる人を理解することができません。男子校で育ってきた人には、共学の人の気持ちはわかりませんし、付き合ったことがない人には付き合ったことがある人の気持ちはわかりません。 意識高い学生とそうでない学生がいがみ合う理由、フリーランスと会社員がいがみ合う理由、いずれもお互いが自身の体験の外側の世界だからです。

しかし、僕らの多くはこの事実を忘れがちです。もちろん僕もふくめて。
僕らは常に自分の体験を、それを通じて形成された自分の価値観を普遍的なものだと思います。だから僕らは、相手に自分がもしその状況にいたら、自身が行うのであろう行動を求めます。それを当然とします。時に人は見返りを求めます。それは、自分が尽くしているんだから、相手も返してくれると信じているからです。彼らにとってそれは当然なのですから。しかし、それは時に報われません。尽くされている側と尽くしている側では経験、体験が、価値観が違うのですから。
体験の外側の世界から語りかけても、その声は決して届きません。彼らにとって、その声は異国語と同じなのです。勉強の価値を知らない生徒に勉強の価値を教えても伝わりません。体験の外側の世界から、体験の外側の世界についての価値を教えるとき、それには共感の落とし所を変える必要があります。生徒に基礎計算演習の大切さを教える際に、野球において走り込みの価値に例えるように。体験の外側の世界を見せるためには、誰かの体験の内側の世界から呼び込んで行かなければならないのです。
僕らは体験の外側の世界を怖がります。なにがあるかわからないから。自分の世界にいるかぎりそこには、自分の言葉があって、自分で語れる世界がある。居心地もいいし、安心できる。でも、そこに成長はない。 思わず逃げたくなる時も、辞めたくなる時もあるかもしれない。でも、僕たちは体験の外側の世界を否定してはいけないと思う。体験外側の世界を否定することは、きっとそれ以上伸びはしない。
伸びなくてもいいじゃん。
はい、伸びなくてもいいです。

でも、もしあなたがその現状に不満があるならば、それがそれなりの幸せであるが、すごい幸せではないならば、僕らはきっと逃げちゃいけないのです。そのもやもや感は消えないから。
自分の体験してないことを恐れずに飛び込んでいく。自分が理解できないことを、拒まずに、一旦受け取ってみる。自戒を込めていっても、僕自身全然足りない。でも、もう一度。逃げ出したくなる時でも、もう一歩だけ頑張る。体験の外側、やりたくない事柄を超えた先には、きっと何かあると知っている。自戒を込めて
誰かと分かり合えない時、おそらくそれはお互いに体験の外側から話しているのでしょう。だから、もう一度だけ誰かの体験の中に歩みをすすめてください。そこでつながって、ゆっくり、お互いの体験の外に出てみてください。そこで初めて僕らは理解しあえるのでしょう。
今回はこれで終わり。
また、次回。
「1を聞いて10を知る」ときの残りの9について考えてみた
みなさまこんばんは。
本日はよくあるこの言葉「1を聞いて10を知る」について考えてみようと思います。
① 10-1=9…

1を聞いて10を知る
子供の時は鵜呑みにしていたこの言葉。でも、最近ふと気づくことが多くなりました。あ、1を知って10を知るってこういうことだったんだって。その時、それまでは全く違和感を持たなかった自分に違和感を持ちました。1を聞いて10を知る,じゃあ残りの9ってなんなんだろう。増えた9は何処から来たんだろう。
そんな事を考えたのはしばらく前の雨の日の3時くらいでした。
おやつは林檎でした。
でも例なんていくらでもあったんです。
たとえば、ニュートン。りんごが落ちているのを見て、重力に気づきました。
これこそ、まさに1を知って10を知ることではないでしょうか。
② 1の事を、10通りに見ている

では、どうして、ニュートンはりんごから重力気づいたのでしょうか。りんごと重力。重力を知っている僕らですら、この2つの関連性についてなかなか気づくことはないでしょう。では一体どうして、ニュートンは林檎から重力なんて正体不明のものを思いついたのでないでしょうか。その答えはおそらくこんな言葉で説明できるでしょう。彼は「落ちた林檎」ではなく「林檎が落ちたこと」を見ていたのだ。
この例文

これだって最初は一通りでも、すこし見方を変えるとぜんぜん違う世界も見える。
彼はおそらく、1つのことを10通りにみていたのではないでしょうか。
③ 箱庭にいることに気付けない僕ら

僕らは常に気づいていません。
僕らが見える世界が誰かにとっての箱庭であることを。
親から見た時の子供。先輩から見た時に後輩。大学生からみた高校生。自分よりも幼い人を見るとき、かれらの世界の狭さを感じることはないでしょうか。あの時は若かったなぁ。なにもわかっていなかったなぁ。そんな感想を持ったことがある人も少なくはないのではないでしょうか。
しかし、僕らは忘れています、僕ら自身もだれかにとっての箱庭の世界で暮らしていることを。箱庭の中にいる僕らは常に自分の見ていることが世界の全てであるかのように錯覚してしまうものなのです。物事を知覚するためには、比較が必要であり、比較するすべのない、外の世界を知るすべもない箱にはの中の小人にとって、外の世界を知るすべはないのです。
箱庭の中にいる僕らにとって、僕らの世界の通念、常識という枠組みを疑うことは極めて難しいのです。
しかし、僕らの目の前に起きていることは、すべてより広い世界のアルゴリズムの一つの事象でしかないのです。僕らが1を知って10を知るためには、それが1であることを知る必要があります。
しかし、1を1と認識していない僕らにとってその1は世界の全てであり、それ以外に物事は存在しないのです。
④ 枠組みを疑う「なんで」を繰り返そう

では、実際にどうやって1を知って10を知るというのでしょうか。
そのためには、僕らが枠組みを疑う必要があります。
当たり前を疑う。自分の見ていることがより広い世界の一部であることを常に意識する。その時、僕らは、自分の世界よりもより広い世界の存在を認知し、そこにあるであるかもしれない2を認め、結果目の前の事実が1であることを認識します。
そのために必要なこと。それは僕らの言葉「なんで」なのでしょう。
「なんで」
その疑問をもつことは、自分が住んでいる世界が箱庭であることを乗り越えます。
「なんで」があるから僕らは1の外側の世界をしれて、1の外側の世界を知るから、2がわかる。そうしていくうちにぼくらの世界は広がっていって、きっと10を知るのでしょう。
「なんで」を繰り返すことで、僕らの世界はより深くなっていって、より根源に近くなっていく。だからこそ、僕らの世界が誰かの世界の一部であること、僕らの世界が一部であることを知る。そこで人は自らの1が、だれかの2にであり、だれかの3であることを知る。
今回は「1を聞いて10を知る」ことについて書きました。自らの世界の1をそれで全てとするのではなく、常にその大きな世界の一部であることを、残りの9の世界に憧れながら生きていたいですね。
今回はこれで終わり。
ありがとうございました。
なんとなく幸せ。(※ただしすごい幸せではない)
① きっかけは小さな冒険
「春休み、なんもしてなくね?」
そんなことをふと話しだしたのは、先週金曜日の夜でした。時は深夜の2時。彼女もいない、しがない大学2年生の男子2人が話す内容にしては、あまりに陳腐で、あまりにありきたり な内容でした。バスもなければ、予定もない。そんなあたり前で、他愛もない冗談の一部でした。
二日後、僕らは大阪にいました。

僕を知っている人ならば、だれしも思うでしょう。似合わない、と。
予定を立てるのが大好きで、徹底的なリスク回避が一番の強み。危ない橋は絶対にわたらず、いつも安定してそこそこの結果。そんなまさしく石橋を叩いて渡る僕を知っている人ならば、一体誰がヒッチハイクまでして大阪に行く僕を想像できたでしょうか。
一体どうして、僕は大阪に突貫したのでしょう。
② 鮮やかに慣れた世界は鮮やかではない
きっと逃げ出したかったんだと思います。

当たり前の日常に、きっと僕は飽きていたのです。
日々2〜3本のMTGに企画書を1本。移動時間には実学の本を読んで、家に帰っては次の日の予定の整理。そんな僕の毎日は、傍から見ればそれなりに充実したものだったのでしょう。でも、僕はきっと飽きていたのです。
一年前、ぼくはきっかけをもらい、外の世界を知りました。
半年前、ぼくはきかっけをもらい、外の世界を走り始めました。
でも、僕はきっと気づいていなかったのです。一年前は、すべてが新鮮だったその世界に慣れていることに。半年前は、すべてが鮮やかだったその世界が色あせていることに。
どうやら僕は思っていたよりもずーっとはやく、適応してしまっていたようなのでした。
③ 最初の一歩を固めていただけの僕。

はじめの一歩は、傍から見ているよりもずーっとずっと難しいのです
外の世界を知ってより一年。僕はずーっとこの言葉を呪文のように唱えてきました。変わりたいけど変われないもやもや感。欲しい物にどうしても届かないあの渇望感。僕はだれよりもその気持ちを大切にしていると自負していましたし、その恩返しを自分自身で体現しようとしてきたつもりです。小さな交流会をはじめとし、ふとしたきっかけで開かれた2年会は多くの素敵な出会いを生み、すくなくともいくつかのきっかけを生み出したと思っています。
でも、僕は肝心なことを忘れていました。
それは僕が踏み出したのはまだまだ最初の一歩だったんだってこと。愚かな僕は
最初の一歩を踏み出しただけで、世界の全てを知っていた気になっていたのです。
変わるきっかけの最初の一歩は日常から、非日常へと踏み出すものなのです。
当時は鮮やかだった世界でこそあれ、一度慣れてしまえばその鮮やかさは色あせてしまいます。外で活動することに慣れた僕は、自身がまだ一歩を踏み出したばかりである若輩者であることを忘れ、自分自身が新しい非日常へと踏み出すという選択肢を忘れていたのです。
④ 2回目の1歩目を

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